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「仕事は気晴らし」難病当事者の働く理由、その真意とは?

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ライター:Media116編集部

みなさんこんにちは!Media116編集部です。今回はネフローゼ症候群という難病がありながらゼネラルパートナーズの就労移行支援事業所にて勤務されている田中知美さんに取材をしました。発症からの苦悩や病気・障がいのある方を取り巻く雇用環境について彼女が考えること、そして未来の話を伺いました!

「情報がない」発病からの苦悩の日々

「仕事は気晴らしなんです。」
そう語る田中さんの明るい笑顔が忘れられません。
仕事が「気晴らし」?そう聞いた時、私は田中さんを「ワーカホリックゴリゴリキャリアウーマン」なのではないかと思いました。でも、取材を進めるにつれ、その言葉の真意を知ることとなります。

新卒で入社した企業で営業として働かれていたという田中さん。ネフローゼ症候群を発症したのは2008年、入社2年目の3月末、26歳の時でした。発病と同時に2年間の休職を余儀なくされました。

発症当時

これは診断された当時の写真です。顔面がむくみ、そこから内臓も含めて全身がむくんでいったといいます。

ネフローゼ症候群は腎臓病の一種です。文献に書かれている限りでは、尿からタンパク質が漏れ出、全身に倦怠感やむくみをはじめとする様々な症状が出るそうです。田中さんも発病した直後は20kg程むくみで体重が増えたといいます。ステロイドや免疫抑制薬を服用していますが、これまで何度も再発を繰り返してきたそうです。
※ネフローゼ症候群について詳しくはこちら

「その時代(発症した2008年当時)はとにかく情報がなくて、mixiでネフローゼ症候群についてのコミュニティがあるくらいで…主治医から言われることが全てだったんです。それがとても不安でした。」

情報がない。

自分の病気とは?どうなってしまうのか?他の当事者はどう過ごしているのか?その時の田中さんの不安は計り知れなかったでしょう。

発症前

これは発症前の田中さんの写真です。発症してからというもの、元気に日々を過ごしていた「この当時の自分」が脳裏にまとわりついていたそうです。

「発症してからしばらくは元気だった頃の夢をたくさんみました。朝起きると現実は病院のベッドの上です。20代だったし、周りの元気な人と自分の生活を比べていた時期がありました。見た目に現れない病気の特徴かもしれませんが、恋愛などの相談を受けることが多かった時には、もやもやしました。今思うと、とても器が小さいんですが(笑)」

自分は難病を抱え悩んでいるのに、恋愛相談?自分の状況と比較して相談内容がとても些細なことに思えたといいます。

「例えば恋愛なら、その先に家族が出来ていき、子供が生まれていく場合も・・・と考えていくと、恋愛はその人の人生を作っていくそのもの。悩みというものは、人と比較できないんだと思い始めてから、悩みだけでなく、置かれている状況を人と比べることはなくなってきました。同じネフローゼでもいろいろな方がいます。病名が同じだけ。わかりあえる部分もあれば、自分と違う部分があって当然です。」

そう田中さんは語りました。
続けて当時の病気との付き合い方をこう話してくれました。

「通院時の検査結果に一喜一憂していた時期もあり、とにかく病気と“上手くやる”ことを頑張っていたんです。食事もアルコールも摂生していたけれど、なにをやっていても再発するし、病気は本当に頑張りや努力と比例しないものだと感じたのです。治そう治そうと頑張っていた時期は病気が出ていかなくて、あまり病気を意識しなくなってから病気がいなくなってきたと感じるようになりました。」

頑張りや努力に比例しないという言葉が印象的でした。半分諦めに似たような気持ちと病気をコントロールができないことへの恐怖は想像できないほどであったでしょう。

働く意味、そして「お互い様」という気持ち

発症してから2年間会社を休職されましたが、その後復帰することを決めたといいます。療養しながら在宅でできる仕事をしたり、実家に頼ったりという道もあったかもしれないと思うのですが、なぜ「復職する」という選択肢を選んだのかと聞くと、こう答えられました。

「実家には頼れない状況でした。逆に、復職すると慣れた環境、慣れた人間関係があったので、その選択をしました。もちろん仕事はなんとかこなしていましたが、慣れた仲間と雑談する時間が気晴らしだしリハビリでもあったんです。病気を忘れられるその時間が、私の働く意味でもあったのです。」

復職後は営業ではなく経営戦略を担う事業企画本部に配属されました。休職した人の復帰を応援する会社の制度を利用し、最初の1カ月程は時短で勤務していたそうです。まずは午前中だけ頑張ってみる、それができるようになったら午後〇時まで頑張ってみる。フレックス制度などを利用しつつ、その積み重ねで2カ月目からフルタイムに復帰し通常勤務で働くようになったそうです。

周囲からの配慮についても伺ってみました。
「会社には病気について公表していました。同じ部署の方にも病気についてわかるように詳細に説明していました。倦怠感などは伝えにくいので、『テーマパークを朝から晩まで歩き回ったくらいのだるさ』とか想像しやすい置き換えをしたり。でも心配はかけすぎず…のバランスは大事にしていました。出来るときに頑張ろうと根詰めていると、周囲からは大丈夫?無理しないでよ、入院になっちゃうよ、などお声がけを頂き、周りから自分の体調について気づかされることもありました。」

復帰後、配慮を頂きながら働いていた際に社員の方から言われた「お互い様だよ」という言葉が特に印象に残っているといいます。

「“お互い様”というのはとても良い言葉だと思いました。お互い様で受けた恩返しを長いスパンで考えるようになりました。いつか元気になった時に返す、できない場合は必ずしもその人じゃなくても同じように困っている人を助けてあげる。Aさんから貰ったご恩をBさんに返し、巡り巡ってAさんにも恩返しできるんじゃないかって。」

仕事は「気晴らし」その意味とは

「仕事は気晴らし、なんて言ったら怒られちゃいますかね(笑)」と語る田中さん。私はすぐにその言葉の意味を知りました。

「仕事をしている時は病気を忘れられました。一瞬でも忘れることができたら…病気ばかりを考えてしまう状況から離れられれば何でも良いのですが、たまたま、私にとっては仕事だったんです。それに、仕事は“気晴らし”と思うようにしてから、肩がスッと軽くなるように感じました。」

田中さんは図のように難病と雇用には「負のスパイラル」があると考えているそうです。

難病と仕事

仕事をすることが負のスパイラルから抜け出すために何より大事だったと田中さんは言います。

「退院した時には余裕がなく、動けるスピードも限られていて1つ1つのことにとても時間かかるし、ちょっとやると疲れるし…で24時間が全部終わっていました。それがとにかくきつかったんです。」

その時の感覚を田中さんはこう表現されています。

「生きるために生きている。」

生きるために生きる人はこの日本では少ないかもしれないけれど、確実にいる、と。自分がそうなったことで、良し悪しではなく、世界が広がった感覚もあったと言います。

「私の場合ですが、復職して病気を忘れる時間が多くなったら自然と体調が良くなってきたんです。生活のために生活をしている時期は病気を忘れることは難しいけれど、好きな事を短い時間でもいいから挿し込んで、段々と病気の事を忘れる時間を増やしていくことが私にとっては良い効果を出しました。それは仕事でも趣味でもいい、人と会うでもいい、好きなことをするでもいい。病気を忘れ、自分を甘やかす時間を作ることが再発の可能性を減らすことにつながったように思うのです。働いている時間は病気の事を思い出すことが少なくなり、そしてお給料をもらって余暇に充て…と良いスパイラルが巡るようになりました。」

負のスパイラルを断ち切った田中さんはご自身の体験を次のように語っています。

「11年の闘病生活は気づいたらそれくらいの時間が経っていたし、色々なことがありました。病気をすることで色々な気づきがありますが、その期間の事は、後からしか意味づけ出来ない気はしています。振り返れば、たくさんの時間、自分の中に閉じこもっていました。私にとっては、必要な時間だったと思います。」

再発からの渡米、見つけた居場所

2015年秋に病気が再発しました。
「入院した時には薬の量も振出しに戻ってしまったことに落ち込みました。」その時に医師より「再発のはっきりした理由はわからないけれど、もしかしたら、環境が原因かもしれない・・」との言葉を頂き、じゃあ環境を変えればいいのかもしれない!とシンプルに考えたそうです。

人材企業主催の女性向け奨学金留学プログラムに関する情報が、元々海外志向の強かった田中さんの目に留まりました。渡米して難病患者と障害者雇用の実態を学びたいという気持ちが高まり、応募。わずか10名という狭き門をくぐり、留学が決まったのでした。
2016年5月、10年間勤めた会社を退職しこれまでの生き方を変える大きな決断をしたのです。

渡米

こちらは米国各地でのPRIDE PARADEを見学した時の写真。サンフランシスコのカストロ地区にて…田中さんは様々な所へ赴き、日本に居てはできない貴重な経験をされてきたのでした。

帰国後、病気のある方や障がいのある方が充実して働くことができる職場を作りたいと思うようになりました。2017年夏、フラワーショップを運営しながら、障害者雇用に積極的な企業(就労継続支援A型事業所)に出会い就職。代表補佐として経営に関わりながら、病気や障がいを持つスタッフのサポートをするようになりました。

その後、日本で初めて難病専門の就労移行支援事業所「ベネファイ」が出来てすぐに当事者として見学をしていた時から注目していたゼネラルパートナーズに2018年9月に入社。現在は、同社の運営する発達障がいの方専門の就労移行支援事業所「リンクビー秋葉原」にて障がいのある方のサポートをされています。

プライベートでは「ネフローゼ症候群患者会」も立ち上げ、代表として活躍。発病当時ご自身が不安に思っていた気持ちが患者会の立ち上げのきっかけになったといいます。ネフローゼ症候群に詳しい腎臓内科医を呼び相談会をしたり、お花見など当事者間の交流の場を作ったりと忙しくも充実した毎日を送っています。

患者会

他にも2020年のネフローゼ症候群の診療ガイドラインの改訂に向け、パネリストとして参加し、患者の声を医療の発展に活かそうとしています。

自信をつけるための“チャレンジ”

パリ

田中さんは2014年5月、パリへ一人旅をすることを決意しました。

「パリへ一人旅をするまでは、『病気が治ったらやりたい』と思う事はあっても、治るまでは出来ないと決めて、治す方に精を出しては、再発して、振出しに戻る、の繰り返し。いつ治るの?と、思いつめ、薬の副作用で精神的にも症状が出ていて、不安に押しつぶされ、何もかもが気に食わなくて。今だから言えますが、死にたいと思ったことも何度もありました。」

辛かった時期をそう語る田中さん。

「でも周囲に難しいと言われていたパリへの一人旅に行ってみて、私は一人旅もできるんだ!と自信がついたんです。そこから徐々にできることをやってみよう、失敗してもいっか!と考えるようになりました。病気のために諦めていたことや、自分を抑えつけていたことから、自由になろうと思ったのです。」

「渡米も具合悪くなったら帰ろうという、気持ちで行ってきました。帰国後は東京マラソンにも参加してリタイアはしましたが、目標にしていた20Kmを走ることができました。これはある種、病気はあるけどどこまでできるのか?という私にとっての“実験”だったのです。同時に、自分に自信をつけるための“チャレンジ”でもありました。」

やりたいこと、でも病気のために諦めていたこと、そこにチャレンジし、成功体験を積み重ね自分に自信をつけてきたのだと言います。

「患者会も発症から設立までに8年間かかりました。病気になったことで自分に自信がなくなって、途中で体調が崩れてやりきれなくなるのではないか、など最悪の事を考えて踏み切れなかったのです。でも、そうなったら、そうなった時に考える、と思うようになりました。実際、今はあまり活発に活動出来ていません。それでも細く長く出来ることを続けていこうと思っています。」

そして病気について彼女はこう語ってくださいました。

「病気に関して、今は感謝している部分が大きいです。その一つとして、今の仕事に出会えたこと。就労移行支援に通う利用者様とお話をする時に辛かった気持ちを共有できるので、一緒に走っていく、“伴走”することができるからです。」

切り拓いていく未来

「私は“障がいはその人に内在するというよりは、他者との間に存在する”と思っています。だから本当は”障がい者”って言葉は実在しないし、よく“普通”とか“普通の人”とも言うけど“普通の人”はいないし、どちらも実体がありそうでない言葉だと思うんです。障がいのある方の支援をしていますが、“障がい者・健常者“という言葉がいつか無くなればという想いでこの仕事をしています。」

そして現在田中さんが課題に思っていることがあると言います。

「難病のある方はその病気単体では、障害者手帳を受け取ることができない事が多いです。まずは、障害者雇用のテーブルにのれないことが、職業の選択肢を狭めているように感じています。」

「難病のある方がたとえ、障害者手帳がなくとも仕事につけるような努力をしていきたいです。そしてその方たちが自分らしく楽しく、ワクワク仕事ができる世の中にしたい。難病以外で、障害者手帳のある方でも、まだまだ幅広い職種・働き方から選べない場合が多いように映ります。しかし、好きな仕事をしてお金も手に入ることが負のスパイラルから脱却する方法なのだと思います。病気・障がいのある方がそれぞれいろんなキャリアが描けるように手助けをしていきたいです。」

「私自身も自分らしい働き方を追求していくつもりです。副業(複業)で花の仕事も続けています。ゼネラルパートナーズは社会課題をビジネスで解決する企業です。難病だけでなく、悩みは人と比べるものではないからこそ、すべての人が何かの当事者だと思って、“お互い様”で助け合える社会になるように、病気になったからこそ持てた感性を大事に自分が出来ることをしたいと思います。これからまた再発をする可能性は十分にありますが、今は再発を必要以上に怖がってはいません。減薬に挑戦してきた結果であると同時に、何かを変える必要性がある、と捉えられると思うからです。」

近い未来の目標について、こう語ってくださった田中さん。取材させて頂くまで私の中の田中さんのイメージは「ワーカホリックゴリゴリキャリアウーマン」でした。しかし実際に深くお話を聞かせて頂くと、難病があることで経験した紆余曲折をバネにして未来に目を向ける「高跳び選手」だったのだと気づかされたのでした。

■ネフローゼ症候群患者会についてはこちらから

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