「前例がない」と言われ、入学拒否を経験。障害当事者の私が大学進学・1人暮らしをして気づいたこと
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ライター:久田李菜
私は、脳性まひという障害の当事者です。日常生活では車いすを使っています。
障害当事者の私が学校生活を経て感じた、自分の力だけではどうにもならない課題と、それに直面したときに感じたこととは……。私の体験を振り返りながら、共生社会について考えます。
控えめだった私が「主体性」を持てた小学校時代
皆さんは学校をどのように選びましたか?
私は小学校から中学校にかけては、自らの意思で地域の学校を選びました。理由はとてもシンプルで、幼少期から仲の良かった友達と「一緒に学びたかった」からです。地域の学校に通いながら、特別支援学級に在籍していました。
小学校の徒競走の時の写真(筆者提供)
幼少期の私はとても控えめで、困ったことがあっても自分から「助けて」と言えませんでした。しかし、特別支援学級の先生は、すぐに手を貸すことはせず、私自身がどうするかを見守るスタンスをとっていました。
当時は「近くにいるのに助けてくれないなんて、鬼なのか」と思っていました。しかし、この関わり方を貫いてくれたおかげで、私は、自分から「助けて」と言えるようになりました。友人も、だんだんと自然に手を貸してくれるようになりましたし、先生が放っておいても、休み時間になれば一緒に遊んでいたそうです。
学校行事のときは「ついていきましょうか」と心配する母をよそに、「学校で何とかなる」と言ってくれた先生。最後までともに学ぶということを大切にしてくれ、私自身の主体性を育んでくれました。この先生との出会いがなかったら、今の私はないと言い切ることができます。
進学で突きつけられた「障害」
中学校も地域の学校を選び、必要なサポートを受けながら小学校の時と変わらない学校生活を送っていました。
ですが、高校を選択する際に、初めて地元の高校から入学拒否をされました。前例がないからという理由でした。母は「特別支援学校があるのにどうしてうちの学校に来るのか」と言われていたと、あとから知りました。
初めて他者から自分の障害を意識させられた気分でした。今までなんの不便もなく学校生活を送っていた私にとって、あまりにも衝撃的すぎる出来事で、自分が障害者であることを恨んだ瞬間でした。
悩みましたが、最終的には特別支援学校に行くという選択をしました。ですが、障害のある人だけが集められている学校に違和感をもっていたし、正直、抵抗もありました。
「周りの友達は学校を選んでいるのに、なぜ私だけ選べないのだろう」そう思っていました。
特別支援学校に行くことになって、何もかもが変わりました。1クラス3名しかいない教室で、学力別にクラスが分かれ、勉強をする。勉強は分かりやすかったし、分からないところがあれば質問しやすかったので学力は上がりましたが、3名しかいない教室は寂しかったし、違和感がありました。はじめは友達もできず、退屈な日々を送っていました。
管理された生活で「自分」が消えていく
高校時代の久田さん(筆者提供)
特別支援学校に入って、学校だけでなく、日常生活も180度変わりました。
医療型福祉施設に入所することになり、高校生の間はそこで過ごしました。365日、起きる時間も寝る時間も、食べるものも入浴の回数も、全てが管理された生活が3年間続きました。
最初はこの生活リズムに違和感を持っていたのですが、「介助を受ける側だからしかたがない」と思うようになり、次第に自分が消えていく気持ちがしました。
集団生活のため、自分が介助をして欲しいタイミングであっても、「ちょっとまってね」と言われることが多々ありました。多くの介助を必要とする私は、仕方のない事だと思うしかなく、自分の思いを伝えても無駄だと思うようにもなりました。自分の好きなものよりも、「介助しやすい」服を着て、いかに手こずらせないか、そんなことばかり考えていました。
また、外出する際は、「外出計画書」を出さなければならず、介助も必要だったため、行動範囲も自然と狭くなってしまいました。大好きだったテレビも時間が限られているため、思うように見ることができず、他の入居者に譲ったりもしていたので、外からの情報が少なかったように感じます。
人生の分岐点 大学進学と1人暮らし
大学時代の友人との飲み会(筆者提供)
閉鎖的な環境の中で、高校3年間を過ごした私ですが、友達もでき、環境にも慣れ、「大学に行きたい」という思いが出てきました。
実は、中学までは勉強があまり好きではなかったのですが、高校3年間で勉強の意欲を取り戻しました。進学という選択肢を持てたのは、当時の担任の先生の熱心な関わりのおかげだと感謝しています。
しかし、高校の時と同じ理由で、県内の大学では入学拒否をされました。そこで担任の先生がすすめてくれたのは、地元から離れた愛知県にある日本福祉大学でした。
何も経験のない私が、1人暮らしなんて出来るわけがないと思っていたし、管理された生活を3年間送ってきたこともあり、同年代の友人とどう話せばいいのか、という不安も正直ありました。
ただ、どうしてもキャンパスライフを送りたかった私は、県外での1人暮らしを決意しました。 1人暮らしとともに重度訪問介護を利用して、ヘルパーを派遣してもらうことになりました。
毎日が新鮮なことばかりでしたが、中でも「人の顔色を窺うことなく介助を頼める」。これが、私にとって一番良かったことでした。
1日のリズムを自分で決めることができ、時間を気にせず何かに没頭できる。
そんな当たり前のことが、今まではできなかったと気が付きました。
大学に進学して、自分の好きな分野について障害を気にせず学べることはもちろん、出会った友人たちが私を外に連れ出してくれることで、行動範囲もぐっと広がりました。
1人でできることは少ないけれど、遊びの中で得た「仲間がいればできることが増える」実感は格別にうれしかったです。
誰も排除しない社会を創りたい!
「私の経験を活かして、もっとたくさんの人に自分らしく生きて欲しい」という思いから、大学を卒業後、障害のある方の地域移行に携わる仕事をしていました。当事者が当事者を支援するピアサポートという立場です。
色々な障害当事者と接していく中で、同じ障害であっても、これまでの経験や抱えている問題は違うと気づきました。
「地域で生活したい」という思いで生きていると、様々な世代や価値観の人と関わっていかなければなりません。しかし、限られた環境の中にいると、理解や関心のある人としか関わりを持てないと実感しました。
私が目指しているのは「どんな環境にも障害者が普通にいること」です。
福祉実践教室(筆者提供)
私は年間20回ほど講演活動をしているのですが、「障害のある人と関わりがありますか?」とたずねると「関わりがあります」と答える人は両手に収まるほどの人数であることがほとんどです。
さらに、「大人になった今でも関わりがありますか」とたずねると、ごくわずかになってしまいます。
話を掘り下げていくと、高校生になった段階で関わりが無くなってしまうという回答をもらいます。私たちはどこで出会うのでしょうか。私は多くの人が交わる教育現場で、障害の有無に関わらずともに過ごすことこそが、誰も排除しない社会を創る一歩だと信じています。そしてそんな社会を実現するためには、私一人が行動するだけでは足りないと感じます。
より多くの人が、先入観にとらわれず「どうしたらできるか」という視点を持ち、つながり、社会を変える仲間となってくれることを願っています。
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ライター 久田李菜
1995年1月6日生まれの28歳 脳性麻痺という障害で、手足に麻痺と体幹機能障害がある。 18歳から重度訪問介護の制度を利用しながら、1人暮らしをスタートさせた。 口癖は、「なんとかなる!!」
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