海外へ渡った車イスの男性が出会ったオリーブオイル。その販売に挑む理由とは
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ライター:中たんぺい
2~3万人に1人の割合で発症し、国の指定難病にも認定されている骨形成不全症。骨がとても弱く骨折しやすいため、車イスを使用しながら生活する人が多いと言われています。当事者は、どのようにキャリアを形成しているのでしょうか。アイルランドで営業の仕事に就いているけいすけさんは、イタリアでのオリーブ農家との出会いから、現在、オリーブオイルの販売へ挑もうと決意しました。どのような道のりを歩んできたのでしょうか。
衝撃が走るおいしさのオリーブオイル
けいすけさんが立ち上げた団体"Lo Sfidante"が手掛けるオリーブオイル
2022年イタリア、けいすけさんは、旅行で友人の家を訪れていました。食卓には、手作りのミネストローネ、自家製のサラダ、パンが並んでいます。その時に、友人が1本のボトルを持ってきました。
「これさ、パンにつけて食べてみて」
友人が勧めてきたのは、日常の風景に溶け込むオリーブオイル。薦められるがまま、オリーブオイルを皿に入れて、そこにパンをディップ。そして、口に運びました
「こんなの初めてだ!」
口に入れた瞬間、オリーブのフレッシュな香りと濃厚な旨みが広がりました。
衝撃を受けたけいすけさんは、オリーブオイルを調べることに。友人の紹介でオリーブ農家やオリーブオイルを作っている現場を巡り、話を聞いていくと、業界における課題が見えてきました。
「過去10年でイタリアの農家の30%以上が廃業しているんですよね。他にも、エキストラバージンと呼ばれる高品質なオリーブオイルの規格が国ごとに定められているのですが、市場に出回っている商品が必ずしもその規格を満たしていなかったり。それなのに、規格を満たしていない商品を販売を取り締まる法律もないんです。結果、安くて品質のよくないエキストラバージンのオリーブオイルが市場で売られて、高品質でおいしいオリーブオイルを作る人たちが危機に瀕していると気づきました」
オリーブオイルを作っている方々は、家族経営で細々と販売している方が多数。価格競争に巻き込まれて、商売を続けられない状況に陥っているとわかり、「このまま、おいしい商品が廃れていくのはもったいないし、このオリーブオイルにまつわる問題も知ってほしい」と考えるようになりました。
「なにか方法はないだろうか」と考えたけいすけさんは、思いつきます。
「そうだ、日本で販売してみよう! 食べることが好きな日本人に、おいしいオリーブオイルはきっと気に入ってもらえるはず」
アイルランドへ飛び、現地で働き始めて7年目。イタリア語で挑戦者を意味する「Lo Sfidante」という団体を立ち上げ、オリーブオイルを販売する準備を始めました。
挑戦者――その言葉は、生まれながらに骨形成不全症を患い、車イスで生活をするけいすけさんにが、大切に心に秘め続けている言葉でもありました。
世界が広がるきっかけは駄菓子屋
1985年生まれのけいすけさんは、1、2歳のごろから骨折を繰り返していました。精密検査の結果、先天性の骨形成不全症と診断。診断後も、骨折による入退院を繰り返し、徐々に日常での歩行ができなくなり、幼稚園にはほとんど通えませんでした。
通学方法を考えた結果、小学校は、車イスで通える自宅近くの公立校へ進学。
仲のいい友人に囲まれ、車イスに乗りながらサッカーに参加するなど、楽しく学校へ通うも、2年に1度のペースで骨折。手術と入院を繰り返します。
当時の移動範囲は、学校と自宅の周りのみ。学校と自宅は隣り合わせの場所にあったため、坂が多い地形で、1人で車イスをこぐことが難しく、数百メートル圏内で、生活を送っていました。
学校と自宅が世界のすべてだったけいすけさん。転機は、中学1年生の時に訪れました。
「友人が隣町にある駄菓子屋に連れて行ってくれたんですね。車イスで移動して20分くらいの場所にあるお店です。自分1人では行けない、山を越えたりして、結構な大冒険でした。それが、すごくおもしろくて。駄菓子屋以外にも地区の体育館に行ったりしましたね」
外に広がる世界。それは、非常に刺激的で、けいすけさんは「もっと遠くへいきたい」と想いを募らせるようになりました。
海外在住のけいすけさん、外に目を向けるきっかけは駄菓子屋だった。
母親の心配がきっかけで始まった親子2人アメリカ旅
中学2年生、いまのけいすけさんに繋がる出来事が訪れました。それは、アメリカへの旅行です。自分で積極的に計画したのか……と思いきや、その始まりはネガティブな理由からでした。
「中学校2年生の時に英語の成績が急降下したんですね。自分に英語を勉強してほしいと思っていた母親が心配して、アメリカ旅行を計画しました。僕のモチベーションを上げようとする作戦ですね(笑)」
結果、けいすけさんは父と2人で約2週間のアメリカ旅行をすることに。「この影響で海外に出たいと思うようになったんですよ」とけいすけさんは振り返ります。
アメリカでの旅程は、ビックリするほどハードでした。西海岸のロサンゼルスから東海岸のニューヨークまで、6都市ほど見て回ったそうです。1都市に2日の滞在、1日もゆっくりと過ごす日はありませんでした。
必然的に移動の時間が増えます。タクシーに乗ることが多かったそうですが、その時の出会いは、けいすけさんの心に深く残りました。
「タクシーの運転手に移民の方が多かったんですよ。家族を母国に置いて出稼ぎに来ている人もいました。なまりもあって、話している言葉も少しずつ異なりました。なにより、たくさん話しかけてくれて、優しかったんですよね。こんなに世界は広いんだと実感しました」
しかし、中学2年生だったけいすけさんが話せたのは、英語での挨拶程度。十分にコミュニケーションが取れず、「英語を話せれば、もっと交流できたのに……。いつか海外へ行こう!」とくやしさの中に決意を固めて、帰国します。
アメリカ留学で海外で働くことが目標に
日本に帰国したけいすけさんは、英語の勉強へ打ち込みます。その結果、中学校での英語の成績は急上昇、学年でもトップクラスの成績を残せるようになりました。「まんまと母親の策略通りに進みましたよね」と微笑みます。
その後、中学3年生の時には、横浜市の英語弁論大会で学校代表に選出。大学では留学プログラムが充実している国際学部へ進学しました。
大学生の時には、2回のアメリカへの留学を経験。最初の留学が、大学2年生の夏休みに1ヶ月の短期留学、2回目の経験が大学4年生の時に1年間の長期留学です。
中学生の頃からの悲願を果たしたけいすけさんは、帰国後、次なる目標を「海外で働くこと」に定め、就職活動を進めました。
「海外で働くチャンスがありそうなグローバルに展開しているメーカーを中心に就職活動を進めました。最終的に入社したのが、キヤノンです。配属先は、カメラの取扱説明書を作っている部署で、日本語で説明書を作ったり、その説明書を英語にローカライズする作業をしたりしていました」
日系の大手メーカーへ一般雇用で就職したけいすけさん。社会人となってからは、長期休みを利用して、アジア・アメリカ・ヨーロッパなどに飛び、訪問した国の数は40カ国に。その中でも、海外の中でもヨーロッパで働きたいと思うようになったといいます。
「ヨーロッパは、アメリカよりも小さいんですが、何十もの民族の方々が暮らしていて。こんなにも言葉も考え方も異なる人々が、一緒に暮らしているんだと感動しました。街並みや気候も心地よかったです。ここで働いてみたいと思いました」
しかし、企業で働いているうちに、海外赴任への道のりが厳しいことに気づきました。
「入社した時は3〜4年働けば海外へ転勤できると思っていたんですね。僕自身も30歳までに海外へ出ようと思っていました。ただ、社内を見渡すと、駐在員で行く人は、30代後半〜40代の方達ばかりでした。海外に駐在するには、海外販社のマネジャーとして赴任するのが王道だったんですね。しかも、そのポジションにたどり着くためには、営業の部署で実績を積んでいる必要がありました」
海を渡り、ヨーロッパの企業へ
2年かけてアイルランドの企業へ転職
入社4年目の27歳。海外赴任が現実的ではないと悟ったけいすけさんは、「海を渡り、ヨーロッパの企業で働こう」と決断。目標を定めるとその実現までにコツコツと取り組めるけいすけさんは、ある戦略を立てました。
「日系の企業だと海外での就労は難しい。就労ビザを取得できて、そのサポートをしてくれる外資企業を探しつつ、もし30歳までに就職先が見つからなかったら、ワーキングホリデーでヨーロッパへ飛んでみよう」
海外旅行をする中で、「現地採用の求人が増えている」と感じていたこともあり、ヨーロッパの企業で働く可能性はあると実感。活動していれば、なにかしらの結果は出るはずと思い、転職活動を開始しました。
しかし、現地で働くためにはビザの取得が必要なこともあり、採用面接までなかなか進めません。転職活動を開始して2年間で、面接まで進めた企業数は、3社。それでも、活動を続けていると、30歳が迫った2015年、アイルランドの企業へ販促アイテムを販売する企業から、商品案内をする営業職の内定をもらうことができました。
「取り扱い説明書を作る仕事の中で、販促ステッカーを作ったりもしていたんですね。その制作時には、マーケティング目線で作るので、お客様に訴求するポイントがよくわかると面接でアピールして、内定をいただきました」
そして、けいすけさんは、海を渡り、アイルランドへ。会社の15分の距離にアパートを借りて、海外生活を始めました。
ビザ取得の5年が経ち、次の目標へ
アイルランドで働いて5年が経った2020年。法律の要件を満たしたけいすけさんはビザを取得します。この時、新しい道へ進もうと決断し、ECサイトのプラットフォームの事業を手がけている企業へ転職。オンラインでの技術的なサポートがメインの職種で採用されました。
「ちょうどコロナ禍に突入して、ロックダウンした結果、日本と同じようにオンラインショッピングをする人が急速に増えたんですね。僕のいま勤めている会社も売上が2倍以上伸びていて、大量に社員を募集している時期でした」
現在もECプラットフォームの事業会社で働き続けているけいすけさん。転職を果たしたコロナ禍の時期には、外出も減り、いままでの人生を振り返る機会が増えたそうです。
「中学校で友人に助けられ、留学もして、日本の会社でおもしろいと感じる仕事もして、海外でも多くの人に応援され、助けられながら生きてきました。ただ、今後の人生を考えた時に、会社員として体力的に働き続けられるか心配に思い、将来的には、自分のペースで働いていける個人事業を目指さないといけないタイミングがくるんじゃないかと思いました」
老いて体力がなくなる将来、どうやって生きるか。自分で事業を起こそうか悩みながら働く日々が続きます。
そして、2年が経った2022年。イタリアの友人の家へ旅行した時に、フレッシュなオリーブオイルに出会いました。そのおいしさに可能性を感じ、背景にある社会課題とのつながりを理解したけいすけさんは決断します。
「個人で事業を起こしてみよう!」
2023年には、イタリア語で挑戦者を意味する「Lo Sfidante」という団体を立ち上げ、OLIVE JAPAN® 2023国際オリーブオイルコンテストに出品すると、銀賞を受賞。現在は、オリーブオイルの販売に向けて、クラウドファンディングの準備を進めています。
ただいまクラファン準備中
「ゆくゆくは、オリーブオイルも含めて、情熱を持っている人を応援したい」と語るけいすけさん。最後に、その背景にある想いを語ってくれました。
「大学生の頃に、テレビをつけると国会答弁で、「高齢者・子ども・障がい者などの社会的弱者」って言われていたんですね。その社会的弱者って扱われ方に、悔しい思いをしました。自分でもやりたいことは実現できるんだという想いは強いですし、応援してくれている家族や友人にも元気でやっている姿を見せたい気持ちもあります。常に自分は挑戦者であると思っています。応援しくれた人への感謝のためにも、こんどは自分が挑戦する人を応援したいですし、なにより自分が挑戦者であり続けたいです」
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ライター 中たんぺい
フリーライター。障害、メンタルヘルス、テック、キャリアなどのジャンルで記事を執筆。読んだ人の居場所になれるような文章を目指して、日々の取材に臨んでいます。群馬在住、ADHDの当事者。
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